すとれっちタイム

ちょっと一息、深呼吸。そんな時に読みたいブログ。

成長曲線

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これは私が運営しているブログのある期間におけるセッション数を表しています。


「努力する時間」と「成果」は、正比例関係にはなりません。

〇〇をしたから△を得られる、という単純な構図は存在しないわけです。

 

やり続けていくと、

  • 毎日やっているのになんで成果が出ないんだろう…。
  • 才能ないのかなぁ…。
  • やるだけ無駄なのかなぁ…。

そういった悩みがふつふつと湧いてくる瞬間が必ず訪れます。

 

この悩みに対する最も簡単な解決策は「辞める」ことです。

「もういいや。やーめた」

そう言うことができれば、すべての悩みから解放され、自由になります。

しかし、逃げてばかりでは先へ進めません。

 

悩んで悩んで、それでもやり続けることを選んでいくと…

ある時、急に霧が晴れる瞬間がやってきます。

今までできなかったことが急にできるようになる瞬間です。

 

もう嫌だな、辞めたいな…そう思っている一歩先には、必ず晴れ間が待っています。

  • 「辞めるのはいつだってできる。ならば今辞める必要はないじゃないか」
  • 「あと1日だけ続けてみよう」

そんな心がけが大切だと思います。

お小遣い制度

f:id:tomyblog13:20170710072126j:plain子供の頃、うちには「お小遣い制度」がありませんでした。

だから、周りの子供達の

・1ヶ月に△円

・〇〇のお手伝いで△円
という制度が羨ましくて羨ましくて…仕方ありませんでした。

 

何か欲しいものができた時、うちでは

「なぜそれが欲しいのか」

を親にプレゼンし、説得する必要がありました。

 

プレゼン制度を導入しているご家庭なんて、一体どのくらいあるのでしょうか。

ボンバーマンゲームや遊戯王カードの必要性を必死になって考えたことを今でもよく覚えています。

 

 

今振り返ってみると、この教育にはとても大きな価値があったように感じます。

まずは「欲しいものではなく、必要なものを買う」という考え方が身につきました。

私は何か新しいモノを買うときには

「これって、今の私に本当に必要だろうか」と一瞬待つことができます。

これは確実にこの教育のおかげです。

 

また「お金をもらうこと」に対する考え方も身につきました。

プレゼン制度はきちんと準備をして成果を出せば、ある程度まとまった金額を払ってもらえるというメリットがありました。

必死になってプレゼンをして、遊戯王カードのスペシャルキットを買ってもらったことはいい思い出になっています。

 

お小遣い制度では、この考え方は身につきません。

お小遣い制度の最大のデメリットは

「お金をもらうこと」と「もらう金額」が1:1の関係性である、

という部分にあります。

 

まさに時給のアルバイトや、定額制のサラリーマンと同じ考え方です。

働いた時間や労働力の対価としてもらえるお金は常に一定であり、大きく変動はしません。

「安定」といえば聞こえはいいですが、どれだけ頑張っても対価が変動しない働き方は、徐々に私たちの「考える力」を奪ってしまいます。

 

お小遣い制度、時給制度、定額制度…

根本はどれも「お金=労働の対価」です。

いかに早くその関係性を抜け出すか、が働くうえでは重要だと思います。

飽きないための工夫

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  • 飽きてしまう。
  • モチベーションが落ちてしまう。
  • やる気がなくなってしまう。

どれも人間である限り、必然的なことです。

どんなに魅力的なことでも、毎日同じことをやっていたら必ず「飽きる」瞬間は訪れます。

しかし、世の中には同じことをただひたすらにやり続けられる人がいます。

これはどうしてでしょうか。

 

どれだけ同じことをやっても飽きない人の特徴は「原点」「工夫」にあると思います。

 原点とは「何のためにやっているのか」であり、工夫とは「変化」です。

 

例えば、私の友人に毎日娘さんのためにキャラ弁をこしらえているパワフルママさんがいます。

これこそまさに「娘の喜ぶ顔を見るため」という”原点”と、

「次はどのキャラクターを作ってみようかしら」という”工夫”が明確になっている典型的なパターンです。

 

続かない人というのは、たいてい作業そのものが目的になってしまっています。

ただ「毎日弁当を作る」だけでは、1ヶ月もすれば飽きてしまいます。

 

「わたし、何をやっても続かないんです。」

そういう人は一度、原点と工夫に立ち返ってみることをオススメします。

勉強すること。

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「休日は何をしているんですか?」

「朝から勉強しています。」

そう答えたら

「何か資格を取ろうとしているんですか?」

と聞かれました。

 

日本人ってだいたいそうです。

  • 勉強=受験
  • 勉強=就活
  • 勉強=資格取得

勉強は何らかのゴールを達成するために「頑張る」ものであり、そのゴールを達成したら「解放される」ものだと認識している人が多くいます。

 

言わせてもらえば「超・近視眼的」です。

これは勉強の本質を全然捉えていないと思います。

 

勉強とは何かというと「今の自分が持っていないモノを吸収すること」です。

私は毎朝必ず「勉強する時間」を自分にプレゼントしています。

読みかけの本を読むこともありますし、YouTubeで動画を見ることもあります。

またブログを書いたり、DVDで映画を観ることもあります。

目的は「今の自分を成長させること」です。

 

子供の頃から「勉強しなさい」と言われて育った人ほど、大人になってから勉強をしなくなります。

向上心を失い、現状に満足した人はどんどん輝きを失っていきます。

 

本来の勉強とは、とても楽しいものです。

親や周りにいる大人が毎日楽しそうに勉強していたら、子供だって勉強し始めます。

勉強することの楽しさ・魅力を語れるオトナに、私はなりたいと思います。

読書の活かし方(ゲームと人生の違い)

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皆さんはゲームをやりますか?

ポケモンドラクエ、FF、モンハン…世の中には面白いゲームがたくさんあります。

最新作が登場すると、必ず後追いで出版されるのがそのゲームの「攻略本」です。

  • アイテムの手に入れ方
  • 隠されたダンジョンの見つけ方
  • ラスボスの倒し方

攻略本には、ゲームをクリアするための最短距離が書かれています。

読むか読まないかは自分次第です。

「時間はかかれど自分の力でクリアしたいんだ。だから読まない。」

そういう人もきっといるはずです(私もどちらかというとこっち派です)。

 

では、読書。

皆さんは読書をしていますか?

読書というのは、自分の人生を進める上での「攻略本」です。

  • 他人の人生の成功談(失敗談)
  • もっとこうしておけばよかったという後悔

これらを学ぶのが読書の目的です。

たくさんの本を読んでおけば、それだけ多くの人の人生のエッセンスを吸収することができます。

これも読むか読まないかは自分次第です。

「時間はかかれど自分の力でクリアしたいんだ。だから読まない。」

そういう人もいるでしょう。

 

しかし、ゲームと人生の大きな違いは「やり直しが効かない」ということです。

クリアできた!というときには、もうおじいちゃんになっているかもしれません。

どうせ成功するのであれば、なるべく早く成功しておいたほうが人生を満喫できます。

 

人生に「裏ワザ」はありませんが「攻略本」はたくさんあります。

読み放題の攻略本が目の前にあるのに…それでも読まないという選択肢を選び続けますか?

私はガンガン読んでいこうと思います。

ペルソナとシャドー

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ペルソナとは「仮面」、シャドーとは「本性」です。

人はどんな時も「仮面」をかぶって生きています。

家では”父”という仮面、職場では”上司”という仮面、レストランでは”客”という仮面。

今のあなたはどんな仮面をかぶっていますか?

 

そしてその「仮面」の下には、必ず「本性」が眠っています。

この仮面と本性のギャップが大きくなる時、私たちの精神状態は不安定になってしまいます。

 

以前、私が尊敬する大好きな上司が病に伏したことがありました。

彼は誰もが認める「できる人」。

仕事が早くて、笑顔が素敵で、いつも「キラキラ」していました。

しかし、ある時から急に欠勤が多くなり…

精神状態が不安定になったことを理由に入院、そのまま会社を去ってしまいました。。

 

彼はどんな時も「できる自分」「キラキラしている自分」という仮面をかぶり続けた結果、誰にも自分の弱さや心の悩みを打ち明けることができなかったのです。

その無理がたたり、ある日を境にして急に精神状態が乱れ、人前にでることができなくなってしまいました。 

これこそまさにペルソナとシャドーの”ギャップの蓄積”です。

 

人間は弱く脆い存在です。

毎日100%で頑張れる人なんて絶対にいません。

時には自分のシャドーに対して素直になり「できない自分」「ドロドロしている自分」と向き合う時間も必要です。

 

だからこそ、大人になったら自分が所属するコミュニティの数は増やしていきましょう。

自宅と職場しかコミュニティがなかったら、仮面を外すチャンスがありません。

 

自分は今、どんな仮面をつけているのか。

本当はどんな仮面をつけたいのか。

取り返しがつかなくなるまえに、一度見つめ直す時間を持つべきだと私は思います。

継続することの強み

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「1つのことをやり続ける」

最近、これが本当に大切なことだと改めて感じるようになりました。

 

これでもか、これでもか、と毎日やり続けていくといつの日か「一人勝ち」をする日を迎えます。

それは「自分が先へ進んだ」ということであるとともに「周りが脱落した」ということでもあります。

 

私が毎日続けていること。

それは「ストレッチ」です。

 

私は小中高大と15年にわたって、野球をやってきました。

そこで出会った仲間の中には、体のケアとして熱心にストレッチをする選手もちらほら見られました。

しかし、彼らが「今も」ストレッチを継続しているかというと…

誰も継続できていません。

 

特別なことや、かっこいいことでなくていいのです。

自分が「あたりまえ」だと思っていることをただただやり続けていけば、それはやがて大きな価値になります。

時間は不可逆性です。

継続した「時間」に勝るものは何もないと思います。

仕事になるまで遊びなさい。

西野亮廣さんが好きです。

西野さんの本は

「なるほど。たしかに。そうきたか。」

という、ひらめきや納得感に溢れています。

 

【魔法のコンパス】(主婦と生活社)という本の中にこんな一文があります。

 

『「好きなことで食っていけるほど人生は甘くない!」という時代から、

「好きなことで生きていく」を追い求める時代になり、

これからは「好きなことでしか生きていけない」時代が間違いなくやってくる。』(p.327)

 

『今後、親が言うのは「遊んでばかりじゃいけません。仕事をしなさい」じゃなくて「仕事になるまで遊びなさい!」だね。』(p.329)

 

本当にそう思います。

 

今と昔では何が違うか、と言ったら「人とのつながり方」が大きく違います。

中高年世代は「人間関係は希薄になった」と口を揃えて言いますが、私はそうは思いません。

たしかにご近所さん同士で「醤油を貸し合う関係性」は今は皆無となりました。

しかし、ネットやSNSを通じて「同じ志を持った人が集まる」という関係性はどの時代よりも発達してきています。

この関係性がもたらすものは何でしょうか?

それは「お金を生み出す環境」です。

 

私は「歯磨きと同じ感覚で、みんながストレッチをする社会を創りたい」という志のもと、ストレッチの普及を軸にブログを書いています(http://tomy-blog13.com)。

一昔前ではこういった志をもっていても、せいぜい1つの町に1つのお店を開いて、近隣の人たちにサービスを提供することしかできませんでした。

しかし、今ではネットを通じて50万人にも及ぶ人に「ストレッチって大切だよ」という私のメッセージを届けることができています。

そしてそこから共感してくれる人や、一緒に勉強する人が生まれ、私がオススメする本の購入などを通じてお金が発生する仕組みができています。

  

つまるところ、何が言いたいかというと…

今は「何をやってもお金になる時代」になったわけです。

コミュニティを作る仕組み、物を流通する仕組み、人の同意でお金が集まる仕組み…さまざまな仕組みが世の中には溢れています。

やるかやらないか、は自分次第です。

しかし、頭を使って工夫すれば「誰でもできる時代」です。

 

だからこそ、好きなこととお金になることを別にして「休日が来るのを楽しみに嫌な仕事を耐える」という働き方はもったいないと思います。

 

『好きなことを突き詰めて、それをお金にしていく』

その働き方こそが、最も人生を輝かせる働き方であり、これからの時代の働き方なのではないかと思います。

魔法のコンパス 道なき道の歩き方
魔法のコンパス 道なき道の歩き方
 

なんでもいいから勝手に決めちゃえ。

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「特にやりたいことはないんです」

そんな言葉が返ってきました。

 

先日、大学時代の野球部の後輩とご飯に行ったときのことです。

転職を考えているんです、という彼の相談に対して

「何かやりたいことはあるの?」

と質問をしたら、そんな言葉が返ってきました。

 

人生でやりたいこと。

みなさんはありますか?

 

人間は良くも悪くも大変です。

なぜなら自分の人生を「自分の意思」でデザインすることができてしまうから。

動物は与えられた環境の中でただ「生きる」ことができますが、人間は「この環境って自分にとってふさわしいのだろうか」と考えることができてしまいます。

 

人生において大切なのは「決める」ことです。

やりたいことは自然に湧いてくるものでも、他人から与えられるものでもありません。

だから「やりたいことがない」と自分で決めてしまっていたら、

いつまでたっても「やりたいことがない自分」から抜け出すことはできないわけです。

 

全ての人間に共通して「決まっている」ことは、死ぬことです。

今生きている私たちは、あと100年後、すなわち36,500日後には誰もこの世に存在していません。

そう考えれば人生何をやって過ごすかなんて、極論なんでもいいと思います。

 

私は自分の専門分野を「ストレッチ」と勝手に決めました。

いろいろなところで「わたしはストレッチが専門です」「ストレッチの人です」と言っていたら、気づいたときには周りの目が変わっていました。

今ではブログも50万人を超えるユーザーが訪れています(こちら→【ストレッチのチカラ】)。

 

「なんでもいいから勝手に決めちゃえ」

「そうすれば人生はくるくる回ってくるよ」

今の私は、そう思っています。

技術の習得

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最近、ゴルフにハマっています。

小さい頃は勝手に「おじさんのスポーツ」だと思っていましたが、やってみると実に面白い。。

スキマ時間を見つけては、足繁くゴルフ場へと通っています。

 

技術の習得には、

  • 「体の使い方」を意識して「ボールの飛び方」をコントロールする方法
  • 「ボールの飛び方」を意識して「体の使い方」をコントロールする方法

の2つの要素があると思います。

要するに

  1. プロセスから、結果を見るか
  2. 成功した結果から、プロセスを見るか

の違いです。

 

 

ゴルフは野球のバッティングと近しいものがあると思われています。

しかし「自分の体の動きだけで、結果を作り出せる」という観点から見てみれば、ピッチャーの方が本質的に似ているような気がします。

 

体重移動なり、体の開きなり、フォロースルーの方向なり…

体の使い方を意識すれば、ある程度ボールの飛ぶ方向をコントロールできるようになってきます。

しかし、この練習だけではうまくなれません。

 

次にやるべきことは「成功した結果からプロセスを見る」練習です。

要するにドカンドカンと、とにかくボールをまっすぐ遠くに”打ちまくる”わけです。

ボールの飛び方だけにコミットしていると、

「あ、いい打球のときは、こんな感じで体が動くんだな」

という共通した気づきを得ることができます。

ボールの飛び方から、体の動きを作る。

これも大切な練習です。

 

「プロセスからの結果」と「結果からのプロセス」。

どちらも共に重要ですが、いずれかに振り切れている人が多いように感じます。

体の使い方をみっちり細かく意識しすぎるがあまりにフォームがギクシャクして、結果的にボールをキレイに飛ばせていない人もいれば、ドカンと気持ちよく飛ばしているものの、体の使い方がバラバラで再現性にかける人もいます。

 

スポーツは頭を使わないと、上手になれません。

ただここにスポーツの醍醐味があると思います。

怒ると叱るの違い

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高校球児だった頃。

私たちのグランドには、毎日怒号が飛び交っていました。

 

守備でのエラー、バッティングでの打ち損じ、走塁ミス。

野球にはたくさんの「失敗」がつきものです。

しかし、その失敗の先には

「何やってんだ!しっかりやれ!!」

という”怒り”が必ずありました。

 

なんでこんなに怒られるんだろう。

純粋に私は不思議で仕方がありませんでした。

 

エラーしたくてしている人なんていないんです。

プロ野球選手でも4割バッターはいないんです。

だから「失敗」なんて当たり前。

その失敗の確率を落としていくのが練習の目的であるはずなのに、練習でも失敗をすると怒られるという現実。

私たちの練習は、常に「Want」ではなく「Must」でした。

 

 

怒ると叱るの違い、それは何でしょうか。

・自分の感情に支配されているのが「怒る」こと。

・相手のことを思って厳しい言葉をかけるのが「叱る」こと。

以前どこかでこんな言葉を目にした記憶があります。

 

でも正直、私はこの違いがピンときません。

「お前らのことを思って言ってやっているんだ!!」

という言葉は果たして「叱る」なのでしょうか。

叱られている側は、怒られている気しかしませんでした。

 

 

怒ると叱るの違い、それは「視点」にあると思います。

要するに「どこを見ているか」ということです。

『結果を見る』のが、怒ること。

『姿勢を見る』のが、叱ること。

私はそう思っています。

 

失敗に対して「エラーしやがって!」と言葉をぶつけるのは「怒る」ことです。

一方でふてくされた態度や、のんびりボールを拾いに行く様子に対して「お前、何やってるんだ!」と言葉をぶつけるのは「叱る」ことです。

 

「叱る」はいいんです。

「やべ、次は気をつけなきゃ」になるから。

でも「怒る」はダメなんです。

「あ〜ぁ、野球って面白くないなぁ」になってしまうから。

 結果に対して「怒る」ことは、次への挑戦意欲を根こそぎ奪ってしまいます。

 

失敗したっていいんです。

「次はどうしたらいいかな。こうやってみよう。」

そう思える思考を作ることが教育者の使命だと思います。

ターキーの尾

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とある村の、クリスマスのお話です。

娘:「ねぇ、お母さん。どうして私の家ではオーブンでターキーを焼く時に尾っぽを切るの?」

母:「それはね、そういうものなのよ。」

娘:「へぇ、そうなんだ。不思議ね。」

この家ではクリスマスにターキー(七面鳥)を焼く際に、必ず「尾っぽ」を切ってからオーブンに入れる習慣がありました。

「尾っぽだって美味しいのになぁ。もったいない。」

そう思う娘は、次におばあさんに対して同じ質問をしてみました。

 

娘:「ねぇ、おばあちゃん。どうして私の家ではオーブンでターキーを焼く時に尾っぽを切るの?」

祖母:「あら、あなたのお母さんは尾っぽを切ってから焼いているの?」

娘:「そうなの。とっても不思議なの。」

祖母:「それはね、あなたのお母さんがまだ小さかった時、わたしの家のオーブンが小さかったからなのよ」

 

…そうなんです。

昔の家はオーブンが小さく、ターキーが丸々1つは入りきらなかったんです。

だからおばあさんは、尾っぽを切ってから焼いていたのです。

その光景をずっと横で見ていたお母さんは

「ターキーは尾っぽを切って焼くものなのね」という構成概念だけを認識してしまったのです。

 


…何が言いたいか、わかりますか?

要するに「行動の本質を探れ」ということです。

 

大きなオーブンを持っている今のお母さんは、ターキーの尾っぽを切る必要なんてありません。

「なぜ、尾っぽを切るんだろう」

行動の本質さえ知っていれば、取るべき行動は変わっていたはずです。

  • 昔からそうだから。
  • そういうものなのよ。

そういった言葉は思考が停止している証拠です。

 

なぜ?の疑問を持ちましょう。

行動の本質を知れば、きっともっといいやり方が見えてくるはずです。

「今はまだできない」病

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「今はまだできないです」「こんな自分じゃ申し訳ないです」

そう言って隠れてしまう人がいます。

 

気持ちはよくわかります。

「偉そうに…」とか「生意気な…」なんて、できれば思われたくありません。

それに「うまくできなかったらどうしよう…」という不安な気持ちももちろん湧いてきます。

 

それでも発信すること・前へ出ることは、ためらうべきではないと思います。

なぜなら、カンペキに準備が整う瞬間なんて絶対に来ないからです。

  • 〇〇歳になったら。
  • 〇〇を成し遂げたら。

その時にはもう同じチャンスなんて巡ってきません。

 

準備ができるタイミングまで「待つ」というのは、

「見渡す限りすべての信号が青になるまで発車しない車」と同じです。

そんな車ではどこにも行けません。

たとえ「全ての信号が青になる瞬間」があったとしても、次の瞬間にはどこかしらで黄色信号が灯ってしまいます。

 

見切り発車でいいんです。

進んでいけば、目的地へ近づけます。


人生において最も若い瞬間は「今この時」であり、最も年老いた瞬間も「今この時」です。

何事もチャレンジ!

命まではとられません。

大学進学

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「大学受験」

みなさんはされましたか?

人気のある大学には倍率があり、すべての人が望み通りに入学できるわけではありません。

受かった、落ちた。

そのドラマは毎年繰り広げられています。

 

しかし「受かった・落ちた」で一喜一憂するのは、本来の意味を考えればおかしなことです。

大学とは「お金を払って」勉強しに行く場所であり、学校側がその人の学ぶ権利を奪うことなどできません。

 

不合格というのは

「今のあなたの能力だとちょっと苦労しちゃうかも。。だからもう少し準備してきてね」というメッセージです。

そもそも大学側も生徒を落としたくて落としているわけではありません。

生徒数の確保は運営における死活問題であり、一人でも多くの生徒を入学させたいというのが大学側の本音です。

不運にも「行きたい大学に落ちてしまった」のであれば、そこで一度立ち止まってよく考える必要があります。

 

 

第1志望に落ち、「滑り止め」の大学に進学した友人がいます。

彼は口を開けば

「おれはこんなところにいるべき人間じゃない」

といいます。

そんな彼の周りに、人が集まるわけはなく…

孤独でつまらない、バイト三昧のキャンパスライフを送ったそうです。

 

「お金を払って」学びにいく場所に価値を感じないのであれば、わざわざ行く必要なんてありません。

単純にお金がもったいないです。

 

バイトに明け暮れるくらいなら、就職なり、起業なりしてしまったほうが、4年後には多くのお金を稼げる自分になっています。

「その大学には、お金を払ってまで学びたいことがあるのかどうか」

このことをよく考える必要があります。

 

大学進学なんて、贅沢の極みです。

文句を言うなんてとんでもないことだと思います。

文章を書くコツ

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文章を読む時、私たちの頭の中には常に「声」があります。

今この瞬間も「この文章を読んでいる声」が起こっています。

意識を向けてみるとほら。

…聞こえてきましたか?

音読であれ黙読であれ、文章内容を理解しようとする際には必ず「声」が発生しています。

 

この「声」が淀みなく流れるとき、その文章の内容はスッと頭の中に入ってきます。

しかし、この声がスムーズでない時、私たちはその内容を理解できません。

 

たとえば

  • 野球とサッカーはどちらも走るスポーツです。
  • しかし、サッカーの方が走っている時間は長くなります。
  • したがって、より持久力を求められるのは「サッカー」です。

という文章があったとしましょう。

 

この文章が

「野球とサッカーはどっちも走るスポーツであるが、サッカーの方が野球よりも走っている時間は長いスポーツであるので、持久力がより必要となるのは「サッカー」です。」

となっていたら、読みづらさを感じると思います。

 

私たちは無意識のうちに「リズムのよさ」を好みます。

・五七五の俳句

・ラップの韻踏み

などがまさにその典型例です。

 

つまり、いい文章と悪い文章の違いは「言葉のリズム」にあります。

どんなに質のいい内容であっても、リズムが悪ければ途中で読むことを断念してしまいます。

「何を書くか」ではなく「どう書くか」が大切だと思います。