怒ると叱るの違い
高校球児だった頃。
私たちのグランドには、毎日怒号が飛び交っていました。
守備でのエラー、バッティングでの打ち損じ、走塁ミス。
野球にはたくさんの「失敗」がつきものです。
しかし、その失敗の先には
「何やってんだ!しっかりやれ!!」
という”怒り”が必ずありました。
なんでこんなに怒られるんだろう。
純粋に私は不思議で仕方がありませんでした。
エラーしたくてしている人なんていないんです。
プロ野球選手でも4割バッターはいないんです。
だから「失敗」なんて当たり前。
その失敗の確率を落としていくのが練習の目的であるはずなのに、練習でも失敗をすると怒られるという現実。
私たちの練習は、常に「Want」ではなく「Must」でした。
怒ると叱るの違い、それは何でしょうか。
・自分の感情に支配されているのが「怒る」こと。
・相手のことを思って厳しい言葉をかけるのが「叱る」こと。
以前どこかでこんな言葉を目にした記憶があります。
でも正直、私はこの違いがピンときません。
「お前らのことを思って言ってやっているんだ!!」
という言葉は果たして「叱る」なのでしょうか。
叱られている側は、怒られている気しかしませんでした。
怒ると叱るの違い、それは「視点」にあると思います。
要するに「どこを見ているか」ということです。
・『結果を見る』のが、怒ること。
・『姿勢を見る』のが、叱ること。
私はそう思っています。
失敗に対して「エラーしやがって!」と言葉をぶつけるのは「怒る」ことです。
一方でふてくされた態度や、のんびりボールを拾いに行く様子に対して「お前、何やってるんだ!」と言葉をぶつけるのは「叱る」ことです。
「叱る」はいいんです。
「やべ、次は気をつけなきゃ」になるから。
でも「怒る」はダメなんです。
「あ〜ぁ、野球って面白くないなぁ」になってしまうから。
結果に対して「怒る」ことは、次への挑戦意欲を根こそぎ奪ってしまいます。
失敗したっていいんです。
「次はどうしたらいいかな。こうやってみよう。」
そう思える思考を作ることが教育者の使命だと思います。
ターキーの尾
とある村の、クリスマスのお話です。
娘:「ねぇ、お母さん。どうして私の家ではオーブンでターキーを焼く時に尾っぽを切るの?」
母:「それはね、そういうものなのよ。」
娘:「へぇ、そうなんだ。不思議ね。」
この家ではクリスマスにターキー(七面鳥)を焼く際に、必ず「尾っぽ」を切ってからオーブンに入れる習慣がありました。
「尾っぽだって美味しいのになぁ。もったいない。」
そう思う娘は、次におばあさんに対して同じ質問をしてみました。
娘:「ねぇ、おばあちゃん。どうして私の家ではオーブンでターキーを焼く時に尾っぽを切るの?」
祖母:「あら、あなたのお母さんは尾っぽを切ってから焼いているの?」
娘:「そうなの。とっても不思議なの。」
祖母:「それはね、あなたのお母さんがまだ小さかった時、わたしの家のオーブンが小さかったからなのよ」
…そうなんです。
昔の家はオーブンが小さく、ターキーが丸々1つは入りきらなかったんです。
だからおばあさんは、尾っぽを切ってから焼いていたのです。
その光景をずっと横で見ていたお母さんは
「ターキーは尾っぽを切って焼くものなのね」という構成概念だけを認識してしまったのです。
…何が言いたいか、わかりますか?
要するに「行動の本質を探れ」ということです。
大きなオーブンを持っている今のお母さんは、ターキーの尾っぽを切る必要なんてありません。
「なぜ、尾っぽを切るんだろう」
行動の本質さえ知っていれば、取るべき行動は変わっていたはずです。
- 昔からそうだから。
- そういうものなのよ。
そういった言葉は思考が停止している証拠です。
なぜ?の疑問を持ちましょう。
行動の本質を知れば、きっともっといいやり方が見えてくるはずです。
「今はまだできない」病
「今はまだできないです」「こんな自分じゃ申し訳ないです」
そう言って隠れてしまう人がいます。
気持ちはよくわかります。
「偉そうに…」とか「生意気な…」なんて、できれば思われたくありません。
それに「うまくできなかったらどうしよう…」という不安な気持ちももちろん湧いてきます。
それでも発信すること・前へ出ることは、ためらうべきではないと思います。
なぜなら、カンペキに準備が整う瞬間なんて絶対に来ないからです。
- 〇〇歳になったら。
- 〇〇を成し遂げたら。
その時にはもう同じチャンスなんて巡ってきません。
準備ができるタイミングまで「待つ」というのは、
「見渡す限りすべての信号が青になるまで発車しない車」と同じです。
そんな車ではどこにも行けません。
たとえ「全ての信号が青になる瞬間」があったとしても、次の瞬間にはどこかしらで黄色信号が灯ってしまいます。
見切り発車でいいんです。
進んでいけば、目的地へ近づけます。
人生において最も若い瞬間は「今この時」であり、最も年老いた瞬間も「今この時」です。
何事もチャレンジ!
命まではとられません。
大学進学
「大学受験」
みなさんはされましたか?
人気のある大学には倍率があり、すべての人が望み通りに入学できるわけではありません。
受かった、落ちた。
そのドラマは毎年繰り広げられています。
しかし「受かった・落ちた」で一喜一憂するのは、本来の意味を考えればおかしなことです。
大学とは「お金を払って」勉強しに行く場所であり、学校側がその人の学ぶ権利を奪うことなどできません。
不合格というのは
「今のあなたの能力だとちょっと苦労しちゃうかも。。だからもう少し準備してきてね」というメッセージです。
そもそも大学側も生徒を落としたくて落としているわけではありません。
生徒数の確保は運営における死活問題であり、一人でも多くの生徒を入学させたいというのが大学側の本音です。
不運にも「行きたい大学に落ちてしまった」のであれば、そこで一度立ち止まってよく考える必要があります。
第1志望に落ち、「滑り止め」の大学に進学した友人がいます。
彼は口を開けば
「おれはこんなところにいるべき人間じゃない」
といいます。
そんな彼の周りに、人が集まるわけはなく…
孤独でつまらない、バイト三昧のキャンパスライフを送ったそうです。
「お金を払って」学びにいく場所に価値を感じないのであれば、わざわざ行く必要なんてありません。
単純にお金がもったいないです。
バイトに明け暮れるくらいなら、就職なり、起業なりしてしまったほうが、4年後には多くのお金を稼げる自分になっています。
「その大学には、お金を払ってまで学びたいことがあるのかどうか」
このことをよく考える必要があります。
大学進学なんて、贅沢の極みです。
文句を言うなんてとんでもないことだと思います。
文章を書くコツ
文章を読む時、私たちの頭の中には常に「声」があります。
今この瞬間も「この文章を読んでいる声」が起こっています。
意識を向けてみるとほら。
…聞こえてきましたか?
音読であれ黙読であれ、文章内容を理解しようとする際には必ず「声」が発生しています。
この「声」が淀みなく流れるとき、その文章の内容はスッと頭の中に入ってきます。
しかし、この声がスムーズでない時、私たちはその内容を理解できません。
たとえば
- 野球とサッカーはどちらも走るスポーツです。
- しかし、サッカーの方が走っている時間は長くなります。
- したがって、より持久力を求められるのは「サッカー」です。
という文章があったとしましょう。
この文章が
「野球とサッカーはどっちも走るスポーツであるが、サッカーの方が野球よりも走っている時間は長いスポーツであるので、持久力がより必要となるのは「サッカー」です。」
となっていたら、読みづらさを感じると思います。
私たちは無意識のうちに「リズムのよさ」を好みます。
・五七五の俳句
・ラップの韻踏み
などがまさにその典型例です。
つまり、いい文章と悪い文章の違いは「言葉のリズム」にあります。
どんなに質のいい内容であっても、リズムが悪ければ途中で読むことを断念してしまいます。
「何を書くか」ではなく「どう書くか」が大切だと思います。
情報発信の責任
『セカンドクリエイターの時代』
今の時代をそうやって呼ぶそうです。
一昔前「情報発信者」になり得るのは一握りだけでした。
政治家や経営者、一部の俳優などの著名人しか情報を”発信”することはできませんでした。
…平たく言うと、彼らしか本を書いたりテレビに出たりすることができなかったわけです。
世界には「一部の発信者」と「その他大勢の受信者」という構図が存在していました。
しかし、今はネットや動画配信を通じて、一般の人たちが簡単に「情報発信側」に回ることができるようになりました。
受信するだけでなく、発信もする人たち。
これを「セカンドクリエイター」と呼ぶそうです。
このブログも、まさにそれにあたります。
世界に対して情報を発信するということは、それなりの「責任」が伴います。
私が発信をする上で心がけていることは「誰も傷つけない文章を書く」ということです。
どんなに鋭い論点をついている文章であっても、それを読んで傷つく人がいるのであれば、それは魅力的な文章だとは言えません。
価値観は人それぞれです。
しかし、譲れないところはあります。
今までも、これからも、この点だけは貫いていこうと思います。
心が焦るときは動かない
「心が焦るときは動かない」
これは私の座右の銘です。
日々生活をしていると『心が焦る瞬間』はたくさん訪れます。
・取られちゃう…!
・損しちゃう…!
・急がないと…!
そんなときはあえて「動かない」。
そう心に決めています。
例えば、電車に乗る時です。
ホームに電車が入ってくると、車内の様子が見えてきます。
空いている座席が1つ2つだと、ドアが開くのを今か今かと待ち構え、ソワソワし始める人がいます。
ドアが開いた途端に降りてくる人の間をぬって乗り込み、どっかりと座席をゲット…ご本人は満足げ。。
あぁ、かっこ悪いなぁ、、と思ってしまいます。
「早くしないと…取られちゃう」「急げ急げ」
頭の中にあるのは、自分のことばかりです。
人の欲があらわになっている瞬間は、あまり魅力的ではありません。
そういう光景を傍目で見るのも、なんだか心が寂しくなります。
…わたしがちょっとのんびり屋さんなんでしょうか。
でも、そんな自分はキライじゃないです。
転職の相談
転職を考えている友人がいます。
先日「今いるところで頑張るべきか、新しい環境に飛び出すべきか…悩んでいるんだ」という相談を受けました。
とても難しい相談ですが、
「今いるところの”先”に見えるものがないんなら、飛び出してもいいんじゃない」
という話をしてきました。
人は皆「仕事」を通じて人生の”階段”を登っていると思っています。
どの階段を登るか、は自分次第です。
しかし、登り続ける行為自体は必然です。
今登っている階段の先には何があるんだろうか…。
もし何も見えないんなら、一旦足を止めて、違う階段に目を向ける必要もあると思います。
転職って難しいですよね。
どの環境にいってもおそらく100点満点なんてありえません。
新しい環境に身を置いて初めて
「あー、前の会社の方がよかったなぁ」と思う瞬間もきっとあります。
大切なのは”今”じゃなくて”階段の先”です。
たとえボロボロのらせん階段であっても、雲を突き抜けるような勢いがあるんなら登るべきです。
一方で、ピカピカに磨かれたレッドカーペットの階段であっても、一寸先は崖になっているかもしれません。
階段の先に何が見えるか、そんなことを考える時間も大切だと思います。
貧乏生活のすすめ
「一人暮らしはまだしないです。お金ないんで。」
そう口にする若者が多くいます。
20代前半の月収は、おそらく手取りで20万弱くらい。
決して十分ではないと思います。
でも、絶対に実家はでないとダメだと思っています。
20代は身も心も軽い時期、とにかくいろいろな経験を積むことが大切です。
その中の最たるものの1つが「貧乏生活」です。
「今月やばいぞ。あと3日間どう乗り切ろうか」
そんなことを考えられる生活は、20代でしか経験できません。
・預金残高が1万円を切り、お金の大切さを痛感したこと
・もやしのおいしさを知ったこと
・ごちそうしてくれる先輩のありがたみに気づいたこと
どれも20代のうちに経験しておけば笑い話になりますが、30代に入ってしまったら悲壮感すら漂わせます。
一人暮らしができないという人は、実家レベルの生活水準を望むからです。
風呂なしアパート、家賃3万円。
最低限の生活を経験しておけば、あとは上へ登るだけです。
20代の時は苦労したなぁ…。
そんな経験を語れる大人は、どこか魅力的だと思います。
必要は成功の母
「成功するには、情熱がいる」
と人はいいます。
成功の定義は人それぞれで一概には言い切れませんが、
「自分が望む人生を手に入れる」
ことが成功に共通する本質的部分だと思います。
”自分が望む人生”を送りたいなら、
「こういう人生を歩いていくぞ!」
という決意なり、情熱なりが必要不可欠です。
じゃあ情熱って何でしょうか。
私は、
「大きな愛」×「ちょっとの怒り」=「情熱」
だと考えています。
鍵を握るのは「ちょっとの怒り」の方です。
現状にマイナス点や不満点があるからこそ「やってやろうじゃないの」という強い思いが湧いてきます。
恵まれすぎた環境は「ちょっとの怒り」が湧きづらいです。
「今のままでいいや」というマインドからは、熱い情熱は生み出せれません。
いつの時代も世界を変えるのは「人生のどん底を見た人」です。
「もっと、〜なりたい!」「もっともっと、〜したい!!」
”必要”こそが成功の母だと思います。
立体的な着眼点
物事には、3つの着眼点があると思っています。
1つ目が「正論派」。
「ダイエットは健康にいいですよ」
という直球ど真ん中です。
そりゃそうだよね、と誰もがうなづける内容は、正直正論すぎて面白くありません。
次に出てくるのが「反論派」。
「健康のためのダイエットは実は逆効果!?」
という”常識”に一石を投じる内容です。
これはこれでタチが悪く…自分の意見に振り向いて欲しいがゆえに、あえて本筋を否定しにかかる人がいます。
最近の健康本の見出しは、この傾向が強いように感じます。
「継続はいらない!?」「食事制限もいらない!?」「これさえやれば他の運動はいらない!?」
などです。
共通しているのは文末の「!?」でしょう。
無責任だなぁ、、とも思います。
世の中を大きく動かすためには、正論派の「オモテ攻撃」でも、反論派の「ウラ攻撃」でも足りません。
大切なのは表裏ではなく「奥」です。
「あー、そうきたか」「言われてみれば、確かにそれ欲しかった」という着眼点です。
昨年、ちょっとしたブームになった「ストレッチ開脚本」はまさにこの例だと思います。
「ストレッチは大事ですよ」という話がオモテ。
「運動前にはストレッチをやらないほうがいいかも!?」という話がウラ。
「開脚は柔らかさの象徴!とりあえずできるようになってみない?」という話が奥です。
オモテ、ウラ、奥。
この立体的な着眼点を持てる人こそが、これからの時代を牽引していくと思います。
アフィリエイター嫌い説
「アフィリエイター」と名乗る人があまり好きではありません。
近年「ブログで簡単、副収入!」というキャッチフレーズがいろいろなところで謳われて、エセブロガー・エセアフィリエイターが急増してきています。
全ての仕事の本質は、人を笑顔にすることです。
だからアフィリエイトも
「自分が真にオススメの商品をブログというツールを使って、世の中の人に教えてあげる」
という行為であれば、全然問題ないと思っています。
しかし、世の中には”くそつまらない”ブログや、”くその役にも立たない”アフィリエイターが山ほどいます(ごめんなさい、言葉が少し乱れました(◎_◎;))
彼らは自分が買ったこともない、試したこともない商品を
「これ、オススメですよ」「今がお買い得ですよ」
とわけ知り顔で発信しています。
いやいやいや。。
全然だめでしょ、と思います。
そんな言葉を鵜呑みにするユーザーなんて、今この時代にいませんよね。
現にあなた自身は、そういったブログから商品を買ったことはありますか?
…それが答えだと思います。
ネット社会における「お金」は、信用そのものです。
「あー、この人の情報って面白いな」
「なんだか的を射ているな」
「このブログで紹介されているんだから、きっと間違いないだろう」
という構図です。
目先のお金にとらわれる人ほど、足元をすくわれてしまいます。
この時代だからこそ、仕事には”誠実さ”を持たなければならないと思います。
継続のコツは「超・ミニハードル」にあり
皆さんは、毎日継続しているものはありますか?
私は「お風呂上がりのストレッチ」を毎日継続しています。
少しだけ自慢させていただくと…
私は小学校で野球を始めた頃から、昨日の夜までストレッチを1日たりとも欠かしたことはありません。
修学旅行の日の夜も、飲み会の日の夜も、自分で決めたストレッチだけは毎日継続してきています。
だから、誰よりも
「ストレッチって大事ですよ」
「継続するって大事ですよ」
を自分の言葉で伝えられると思っています。
世の中全てに共通していることだと思いますが、継続のコツは「超・ミニハードル」の設定です。
例えば、英語の勉強をするシーンで考えてみましょう。
勉強が続かない人ほど意気込みは強く、分厚いテキストを何冊も購入するところからスタートします。
そうこうしている間に先が見えなくなり…
最後には積ん読で終了してしまいます。
しかし、続けられる人は、小さい単語帳1冊しか持ちません。
それを1日1ページ、
いや1日1単語…
いやいや、1日1ページ開くだけ…
という課題を自分に課しています。
「1日1回、単語帳の1ページを開く」
この『超・ミニハードルの設定』こそが継続のコツです。
よーし、覚えるぞ!と力むことなく、眺めることを毎日ひたすら繰り返します。
すると気づいた頃には「あ、これ知ってる」「なんとなく見たことある」が増えてきて、ページを開くのが楽しくなっている自分と出逢うことができています。
最低限の「超・ミニハードル」の設定。
それこそが継続のコツだと、私は思っています。
残業の裏側
残業はキライじゃない…
そんな日本人って多い気がします。
別に何をするわけでもないのに、毎日遅くまで残っている人、きっといますよね。
そういう人はきっと「残業はキライじゃない」と思っている人です。
日本の職場はまだまだ成果主義に振り切れていません。
なんとなく毎日最後まで残っている人に対して「あいつ、よくやっているよな」という評価をしがちです。
だから”評価”を上げたければ「とりあえず遅くまで残る」という”合理的な”選択をするのもあながち間違ってはいないかもしれません。
しかし、それは結局、小さな小さな社内だけの話です。
社内でいい評価を得たところで、見ている人が変わってしまったら何も残りません。
それならさっさと帰って、スタバで読書でもしたほうが長い目で見たときに身になります。
私の個人的な思いですが…残業って、少しだけ「逃げ」の要素が入っていると思うんです。
もし仮に仕事で失敗してしまったとしても
「いやー、あいつはよくがんばってたから仕方ないよ」
と言ってもらうための伏線。
(…言い過ぎでしょうか?)
これは100%成果主義を取っていない日本ならでは良さであり、悪さだと思います。
家族との時間を犠牲にしながら、身を粉にして働く人たちは別にして…
なんとなく残業に「逃げて」いるんなら、ちょっとだけ考え方を変えてみませんか、というお話でした。
収入を増やすということ。
それはそれは真剣に悩んでいることがありました。
「なんで私は月収100万円、稼げていないんだろう…」
Σ(・□・;)?
何言ってるんだ…、と笑われるかもしれません。
でも当の本人(私)は大マジメ。
真剣に悩んでおりました。
私、自慢じゃないんですが、毎日勉強してるんです。
スキルを高めるための仕事に関する勉強も、人間性を高めるための勉強も…。
毎朝1時間「朝活」として自分のために投資する時間を作っているし、電車の中でも常に課題と向き合ってます。
でも当時の月収は20万そこら。。
通勤電車の車内にいる誰よりも勉強しているはずなのに、なんでスマホをいじっている隣のおじさんよりも収入が低いんだ…!
と、やりきれない思いで過ごしている時代がありました。
そんな時に本田健さんの「ユダヤ人大富豪の教え」という本と出会いました。
その中に
【収入=世の中に対して与えたサービスの質×量】
という言葉がありました。
あー、なるほど、と。
ピンとくるものがありました。
私は”自分に”時間は使っていても、”世の中に”対しては何も与えていないな…と。
そりゃあ、収入も上がらないわ…と気付かされました。
そこからは毎日、何をどう発信していこうか、と考えるようになりました。
そして、少しずつお金も集まってくるようになりました。
世の中に対して、何を、どう与えていくか。
そこを確立することが、収入を増やすことにつながっていくと思います。
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